私が編集雑記を書く理由 – HIHUMI


皆様こんにちは。PNSのHihumiです。

私が記事の最後に、いつも無駄に書いている「編集雑記」これを何故、皆様の貴重な通信リソースを食いつぶしてまで書いているか、今回はその理由について書いていきます。

■謎の編集雑記

「編集雑記」は挨拶の記事から始めた謎のコーナーです。
記事の最後に書く、後書きとも言い辛い、ただのひとり言。

なんでこんな物をわざわざ書いているのか、心底どうでもいいかもしれませんが、一応私なりに、私の主観で、深い理由があります。

今回は、哲学的な記事になりますが、どうかよろしければ、お付き合いください。

■大きく分けて、2つの理由

理由は大きく分けて2つあって

  • 読者により記事を楽しんでもらいたい
  • 書きたくて書いている

性質的には、記事の本文と変わりません。
ただ、「タイトル」や「記事の内容」とズレているだけです。

■書きたいという”意思”

喜び
A_Werdan / Pixabay

私は、無個性な記事はあまり書きたくありません。
何かを主張したいと思っていて、伝えたい事があるからこうしてライターをしています。

自己の表現、自己主張、これを私はやりたいと思っています。

やりたい事をやる。書きたい事を書く。

ここはニュースサイトで、まずは”利益を出す事”を考えるべきというのも当然解っています。

私は肩書きではサイト管理者です。
私はビジネスとして「ニュースサイト」の運営を始めました。

何のためにビジネスをするか、それは「お金のため」「生きていくため」「飯を食べていくため」です。
しかし、そのためだけなら別に、「ニュースサイトの運営」がそれをするための「手段」でなくとも良い筈です。

■手段を選んだ事に意味がある

geralt / Pixabay

生きるだけなら、探せば、選ばなければ、いくらでも手段はあると私は思っています。

仕事の内容や、する事に拘らないなら。


例え、ごみを漁ってでも生きていく”だけ”なら可能なはずです。

今こうして記者として活動するという手段を選んだのは、実行したのは、間違いなく私です。

数ある「生きるための手段」から”記者”を選んだ”理由”
そこに私が記事、編集雑記を書く理由が詰まっています。

私には、自己を表現したいという欲求があり、記事を書く事を楽しみたいという思いがあり、人に何かを伝えたいという意思があります。

これを失った時、制限された時。
私は記者を”手段”として、選んだ意味、その理由を失います。

「ただビジネスのために、ではなく、楽しく書いた記事の方がきっと面白い。」
こういう思いもあります。

■自分がやりたい事をする

考える
geralt / Pixabay

自分の行動を制限するのは、ほとんどの場合自分です。
「○○をすべき」「○○があるから●●をしてはいけない」「○○は良くないとされている」

不可能だからと、諦めたり制限するのは仕方ないかもしれません。
でも、できる可能性があるのに、実行しなかったり、ただ方法を考える事ですら、しないというのはどうでしょう?

私には、他人の意見やくだらない常識に付き合って、少し前に”納得できない過去”がありました。

とてもつまらない、「やりたくない事のために、やりたくない事を続ける日々」です。

私は、人の意見や、用意された道、楽にできる物事の中に、”やりたい事”がありませんでした。
また、”やりたい事”をするべきではないと勝手に思い込んでいました。

だから、常に”一番マシなもの”を選び続けてきました。

私がその時やっていた事は、「一番マシと思ってしていた事」であって「やりたい事」ではありませんでした。

私は幸いにも、生まれた時から体のどこに異常も無く、健康で、五体満足です。
恵まれた日本という国に生まれていて、多くの自由があります。

「やりたい事」が成功するかなんて解りません。これは当然です。
それでも「やりたい事に挑戦できる環境」に私はいました。


やりたい事がどうしてもできない人だって、世の中には大勢います。
なのに私は、挑戦できる環境があるにも関わらず、それをせず「一番マシ」を選び続けてきました。

これはやりたい事ができない人への”侮辱”ではないだろうか。

私は「やりたくない事のために、やりたくない事を続ける日々」を過ごすばかりか、「人を行動で侮辱し続けていた」という事です。

これに気がついた時、私はどれだけ時間を無駄にしてきたのだろうと、猛烈に後悔しました。
やりたくない事は、必要最小限だけして、もっとやりたい事に時間を使うべきでした。

■失敗のリスクと、やりたい事をやらないリスク

リスク
Clker-Free-Vector-Images / Pixabay

私は過去に、とんでもない大失敗をした事があります。
それから言える事は、失敗そのものは大して怖くなかったという事です。

私は失敗を過度に恐れすぎていました。

謝る必要がある事なら、謝る。
責任をとる必要があるなら、責任をとる。
補償する必要があるなら、補償する。

失敗をし、対処を求められら時は心を持って対処に勤めれば良い。

たったそれだけの事で、怖い事なんてあまりありませんでした。

第一、失敗時のリスクというのは多くの場合、予め調節しておく事ができます。
賢く立ち回れば、「やりたい事」をするためのリスクを限りなく、0に近づける事も出来るかもしれません。

リスクを低減する方法は、いくらでもあって、いくらでも実行する事ができます。

例えば、交通手段なら解り易いです。

目的地へ向かうために、バイクで行くか、車で行くか、電車で行くか。
飛行機やフェリーが使えるかもしれませんし、探すだけ手段が見つかります。

例えば、バイクで行くにして、ヘルメットを着用するか、どれくらいの速度、どの道で行くか。
まさかヘルメット無着用で未舗装の道を100キロでかっ飛ばすなんて自殺行為はしないでしょう。

私なら、きちんとヘルメットを着用して、速度標識に従った速度で、なるべく交通量が少ない道を選びます。
あるいは、そもそも車の方が安全かもしれませんし、電車で行けるならそちらの方が安全かもしれません。

「事故の発生率」や「事故が発生した時の危険性」は自分である程度調整できます。

ただし、生きてる限り「ノーリスク」なんてものは存在しません。
生きてるだけで常に時間を消費してる訳ですから。

でもこれって、やりたい事をしていなくても一緒です。
貴重な人生の時間は、やりたい事をしていなくても消費します

今この記事を見ている瞬間にも、確実に消費しています。

….この記事が貴方にとって、価値のあるものである事を祈るばかりです。

■むしろ失敗は素晴らしいもの

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私が過去にやらかした、「大失敗」。
いまさら内容を語ろうとも思いませんが、酷いものでした。

でも、それは私にとって「かけがえのない経験」であると、今なら言い切れます。
これを書くと不謹慎になるかもしれませんが、今ではそれを経験できて良かったとさえ思っています。

失敗を通して、多くの事を学び、大きく成長できたと私は思っています。

人に迷惑をかけた場合を除いては、失敗そのものはそこまで悪い事ではありません。

それに、人に迷惑をかけるのも、ガキやバカなら多少は許されます。
※もっとも、私は許されなかったようですが(爆)

善悪を見分けられる人間が、悪と解っていながら悪行をするのと。
善悪を見分けられない人間が、結果的に悪行をするのとでは性質が違います。

もし後者なら、私の場合はそれを許す努力をします。
例え他の人が許さずとも、信じる神がいてその神が許さずとも、私だけでもそれを許したい。

※許す許さないとは別に、そもそも被害者ですらない人が「叩きたい」という理由等、個人的な感情等で行動を批判する事もありますが、これは許す許さない以前のものなので気にする必要は一切無いです。むしろその人が加害者でその人が悪です。そういう被害にあった時は、無視して自分を通し、本当の被害者にだけきちんと目を向けましょう。被害者になりすました加害者に、相手をする必要はありませんし、許しを請う必要もありません。

私は、その大失敗を通して、今の私の中にある基本理念。

「人に迷惑をかけないようにしたい。」
「社会に役立ちたい。」
「失敗分のお返しをしたい。」

これを完成させました。

■失敗は、行動を続ける限り過程でしかない。

pcdazero / Pixabay

「失敗した」と理解すること。認めること。

マイナスじゃありません。むしろ儲けもんです。

なぜなら、失敗は次に動くための「知識」や「経験」、「原動力」になるからです。
やりたい事を、気後れ無く諦め、次のやりたい事を見つける理由にもなります。

失敗は終わりではなく、ただの過程です。
思い通りの結果にならなかっただけで、悲観する事はありません。

私は、失敗したと認知する事の素晴らしさを知っています。
同時に、成功する事の素晴らしさも知っています。

同時に、何もしないで失敗も成功も無い事の「恐怖」を知っています。

■やりたい事をやらない恐怖

geralt / Pixabay

失敗に責任を感じ、失敗を恐れて、やりたくない事をやらない日々。
そんな日々を、ここ数年は過ごしてきました。

非常に無駄な時間でした。

個人の経験なので、個人差もあるかもしれませんが、私の場合は世界から色が無くなりました。

する事全てがつまらなく感じられ、何も楽しくない。全てに無関心になりました。

常に無気力、常に退屈。
目的無く、ただ死ぬ理由が無いから生きてるだけ。

「やりたくない事のために、やりたくない事を続ける日々」

これは「つまらないことのために、つまらない事を続ける日々」と言い換える事ができました。

する事全てがつまらなくて当然でした。
なにせ、自分がつまらないと思ってる事を自ら選んでしているんです。

思えば失敗なんて、大して怖くありませんでした。
人に何かを言われ続ける事よりも、文句を言われる事よりも、叩かれたりする事よりも。

それを恐れ、何もしなくなる事、”やりたい事をやらない事”の方が、はるかに怖かった。

何をしても楽しくない。生きるのが辛い。毎日が辛い。
楽しい事が無く、何のために生きているのかの意味を見失う。

私の鬱病は、そうしていつの間にか始まっていた。

今思い出しても恐ろしいです。

駅に電車が入ってくる時、勝手に体が動き出して、電車に飛び込もうとする。
恐ろしくなり、柱につかまってうずくまる。

車を運転すれば、今あそこに飛び込めば死ねるのかな。と考え、周りの交通を見て我に返る。

常に何かにつけこんで、自分が死のうとしていました。

そんあある日。
突然、急に訳も解らなく、涙が溢れてきました。

「辛い、悲しい。」

何が辛いのかすら解らないのに、ただ辛く、ただ悲しい。
人生が、まったく楽しくない。

何故こんな目に遭っているのか。
何故こんな目に遭わないといけないのか。
何故こんなにも日常が楽しくないのか。
何故こんなにも日常を楽しめないのか。
何故こんなにも日常が辛いのか。

一体、何が嫌なのか。
一体、何が辛いのか。
一体、何が不満なのか。

解らないのに、ただただ辛い。

あれは、あの大失敗よりも、もっと恐ろしいものでした。

でも、その理由はいたって簡単なことです。

自分が本当にやりたい事を、ずっとしていなかった。それだけの事です。
いくら小手先の行動、娯楽に頼っても、本当にやりたい事の欲求は、本当にやりたい事に挑戦する事でしか満たす事はできません。

私が思うに、本当にやりたい事は
「それに挑戦して失敗する事」か、「それを完全に不可能と認める事」か、「死ぬこと」でしか諦める事ができません。

欲求は簡単「やりたい事をする」こと。
3大欲求なんて、ややこしい区切りがありますが、あって無いようなものです。

人は誰しもかならず、やりたい事がある。簡単な事実です

私はそれを達成しようとせず、諦めるための道すらも自分で塞ぎました。

たった一つの道を除いて…..

欲求に対処する方法が、ただの一つだけになっていた。

簡単で明白な事実です。
あと少しでも気がつくのが遅ければ、私はもう…..

■己を通す

auntmasako / Pixabay

自己流を通すのはスゴイと言われた事もありましたが、私はそれに同意できません。
「自己を通さない事の方が怖い」と、私は知っているからです。

やりたい事が、明確にあった私は、どうしてもそれを諦めれなかった。

挑戦しなければ、失敗はできない。
考えなければ、不可能と認める事もできない。

「やりたい事。」

その自己を失えば、そこに自己は存在しません。

それはただの操り人形か、あるいはただの死体か。

自己を通すのはそれほど難しくありません。

法を犯せば罰がある。人に嫌な思いをさせる事も良くない。
ならそうしないで、できる範囲で自己を通せば良いだけです。

できる範囲で考えて、諦めがつくまでチャレンジし続ける。
時間で解決できない事だってあります。

できないならさっさと無理と、諦める以外にありません。

もし結果的に法を犯したり、人に嫌な思いをさせたりしたなら、それはその時。
法だと、解りやすい罰則がありますし、人に嫌な思いをさせたなら、謝って次から気を付ければいい。

失敗して、迷惑をかけてしまったなら、それを返すためにまた努力をすればいいだけです。

ブレずに、自分をいかに通すか、どうやってやりたい事を見つけ、それをこなすか。

目標を定め、手段を決め、その手段を実行するための手段を決め、さらにその手段を考え…..
難しい事ではありませんし、考えるだけなら怖い事は何もありません。

考えもせず、考える事から否定して諦めてしまうのは、勿体無いです。
「できない」「不可能」と解っても、「できないという事が解った」というだけでも、大きな前進です。

不可能と解れば、また次の方法を考えたり、自分にできる範囲でのしたい事を探すキッカケになります。

■やりたい事をする事が、社会のためにもなるかもしれない。

愛
zhivko / Pixabay

これらをふまえて、「やりたい事をしない」「しようともしない」「考えもしない」「諦めようともしない」
ずっとそこに停滞し続けるという事は、最もするべき選択では無いと、私は考えています。

人は本当にやりたい事でこそ、真の力を発揮して、楽しむ事ができる筈です。

あなたが今、この記事をどのような方法で閲覧しているかは知りませんが、
パソコンにしろスマホにしろ、印刷にしろ、沢山の人の技術が詰め込まれています。

「楽をしたい」「効率化をしたい」そういう個人の思いから、技術が作られます。
「お金を得て、やりたい事がある。」やりたい事をするための手段としてお金を得るために作っている人もいるでしょう。

人類が皆、やりたい事を完全に放棄していれば、ここまで技術が発達する事は絶対にあり得ません
皆が自分の思惑を持って、「作りたい物を作った」「やりたい事をやった」(作らせた、やらせたにしても…)

その結果、その集大成が、目の前にある筈で、これが何よりもの証拠です。

「やりたい事を適切にする事」これが大切であること、
「それが結果的に社会のためにもなる」ということの証拠です。

私には、「人を楽しませたい」「人を楽しませる事で自分も楽しみたい」という思いがあります。
これを愛と言うなら、そうなのかもしれないし、私はこれを愛であると考えています。

私は、愛を持って、愛がために、人を、自分を愛するために。
こうして誰も読まないかもしれない記事を書き、書きたいように、編集雑記を書き加えます。

この愛が広がり、世界により「楽しい」と思える人、その時間が増える事を願って。

…..

それでは皆様。
今回も、記事を閲覧いただき、ありがとうございました。

読者の皆様に、良い一日がある事を願って。

PNS – 編集長 Hihumi

 

編集雑記:今回はほとんど書いてしまった(?)

という訳で、おなじみの編集雑記ですが…..

デデーン
< 書 く 事 が 無 い >

今回はちょっと、書く事があまり無いです。
というのも、今胸の中にある書きたい事、伝えたい事というのは今回は本文の中でほとんど書いてしまったためです(笑)

という事で、あんまり書く事が無いんですが….
せっかくですので、マッサージチェアについてでも書いておきます。

先日、温泉に行きました。
風呂上りってスッキリした気分で休憩所に向かうと….。

まぁ、ある訳ですよ!マッサージチェアが!
4機2種類設置してありました。

利用料金は安いほうが15分で300円。高いほうが400円です。

え…….や、安いほうで、さ、さ、さんびゃくえん!?

なんだと足元見やがって!くそう!くそう!

心の中で鬼のように叫びながら、結局なけなしの300円をつぎ込みマッサージチェアを使いました。

使ってみての感想ですが…..

「いやぁ、素晴らしい」
うん、素晴らしい。ヒジョーに素晴らしい。なんたって素晴らしい。

素晴らしいのこの一言につきます。
(一言どころか、四言くらい書いたけど)

いや、なんたって表現が難しいのです。あの良さは。とにかく良かったんです!
Panasonicの最新式のマッサージチェアと書いてありましたが、本当に、とにかく良かったんです。

私にとっては、元々無い語彙力が、さらに無くなるくらいの、とてつもない衝撃でした。(自覚アリ)

さらに、案内を見ると400円15分の高い方だと、「温かいマッサージ」まであったようだ。

ぐぬぅ、ぐぬぅ!?
最近のマッサージチェアは本当にスゴかった。

……と、おっと、ここまで読んでくれてるアナタ!そう、アナタ!
言い忘れてた!このブログは、更新通知に対応しておりマッス!

もし、もしも….記事を気に入ってくれたなら….!


アァ!なんて事!こんな所にわざとらしく更新通知受け取りボタンが!

チラッ

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